取材を振り返る〖寄稿〗

未解明の原爆犠牲者を追う【寄稿】

新聞協会賞「ヒロシマの空白 被爆75年」「ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現」受賞報告

中国新聞社・金崎由美氏

原爆資料館(広島市中区)の2019年度の入館者数は、1955年の開館以来最高の175万8746人を記録した。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて2月末から臨時休館したため、実質11か月での記録更新である。被爆地への関心が高まっていることの証左だろう。
見学者の誰もが最初に目にするのが「約14万人。1945年の終わりまで」と投影された映像だ。世界中で認知されている広島原爆の死者数と言っていい。
しかしその根拠は、研究者が広島市の被爆前の人口を推計し、被爆後の政府の人口調査と比較するなどして76年に算出した「14万人(誤差±1万人)」。つまり、推計値に過ぎない。研究者自らが当時「より正確なデータが得られれば、この数は改めなければならない」と念を押していた。その後も調査は行われているものの、近年目立った進展はない。

「空白」と向き合う最後の機会

金崎氏(中国新聞社提供)

人命を巡るこれだけの誤差を「もう仕方がない」と諦めてしまってはいないか─。当時ヒロシマ平和メディアセンター長だった吉原圭介・編集局次長が昨年春、現場記者たちに投げかけた問いが連載「ヒロシマの空白 被爆75年」のきっかけになった。
米軍が戦争で使った最初の核兵器である原爆は、たった一発で爆心地から2キロ以内の建物を全焼・全壊させ、おびただしい数の人命、行政や軍の記録書類、街の姿や人々の暮らしをもろとも壊滅させた非人道兵器である。原爆放射線がもたらす健康への影響なども含め、被害の全容解明は今なお遠く「空白」が残る。
生存被爆者の平均年齢は現時点で83歳を超える。「空白」の一片ずつでも埋めていくなら、今しかない。とはいえ「どこまで掘り下げることができるだろうか」と一抹の不安も覚えながら、ヒロシマ平和メディアセンター内に取材班の拠点を立ち上げた。より多角的な原爆平和報道を目指し、2008年に新設された編集局内の部署である。緻密な取材で原爆平和報道を引っ張る水川恭輔記者、山本祐司記者と入社2年目の山下美波記者の3人を専従担当に、河野揚記者、小林可奈記者が兼任で加わり模索が始まった。

名前と遺骨を2本柱に

取材に当たって二つの柱を据えた。1945年末までの原爆犠牲者の「名前」と「遺骨」。いずれも、一人一人の命と尊厳の根幹をなす。
76年の報告書に続き、79年に始まった広島市の原爆被爆者動態調査は、戦後の早い時期に学校の同窓会や事業所が作成した死没者名簿や、平和記念公園内の原爆慰霊碑に納める原爆死没者名簿などを基に、原爆犠牲者の名前を集めている。昨年3月末時点で判明している45年末時点の死者数は8万9025人。「14万人±1万人」との間に埋もれたままの「空白」の犠牲者が多々いることは確実だ。

広島原爆資料館の見学ルートの冒頭にある説明書き。
死者は「約14万人」とあるが、推計値に過ぎない(中国新聞社提供)

爆心地近くで全滅した一家や未就学児などが、公的記録からこぼれ落ちていた。中には原爆投下当日に生まれ、名前がまだない新生児の犠牲者も。京都市在住の男性は、軍務で広島に一時滞在中に被爆死した父を思って毎年原爆慰霊碑に手を合わせていたが、実は原爆死没者名簿から漏れていた。国内有数の「軍都」だっただけに、軍人の犠牲も多かったのだ。
75年という時間の壁に直面しながらも、「空白」に少しずつ光を当てていった。ところが、途中でコロナ禍に直面し、取材はさらに難航した。被爆者も遺族も高齢だ。たびたび、取材断念を余儀なくされた。
そんな中で、感染急増の直前に韓国を尋ね、朝鮮半島出身者で広島で被爆死、あるいは帰還後に日本の被爆者援護から切り離されたまま亡くなった人たちの存在を探ることができた。こうした人たちが多く暮らし「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陜川の被爆者協会が所蔵する膨大な被爆者資料を点検。少なくとも11人が日本で認識されていないことを裏付けた。氷山の一角だろう。日本の植民地支配と被爆、戦後の混乱と貧困に翻弄された原爆被害者たちの姿が見えてくるようだった。

「一人」を突き止める困難な作業

家族の元に帰れぬまま、平和記念公園の原爆供養塔や各地の寺などに原爆犠牲者の遺骨が眠っている。一方で、肉親の遺骨を捜し続ける遺族がいる。「約7万体」とされる原爆供養塔の遺骨のうち、814人には名前があり、広島市が毎年納骨名簿を公開しているが、2010年度以降の返還は2例だけ。ならば、と記者の手で両者をつなぐことを試みた。

広島市内の寺に眠る原爆犠牲者の骨つぼ。平和記念公園内の原爆供養塔をはじめ県内各地に、
引き取り手がなく、多くは名もない遺骨が今も安置されている(中国新聞社提供)

第三者がアクセス可能な資料として、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺族が登録した死没者の名簿や遺影がある。2万3千人分余り。粘り強く照合を進めた。すると、納骨名簿に「鍛治山はる(皆実町三丁目)」さんが、祈念館には同じ住所の「梶山ハル」さんの名があった。
広島市内に住むハルさんの83歳の孫を捜し当て、取材結果を知らせると「間違いないだろう。引き取って墓に入れてあげたい」とおえつを漏らした。納骨名簿を見たことはなかったという。現在、市との間で、返還に向けた話し合いを進めている。記者たちは、「一人」を突き止める困難さを何度となく痛感した。同時に、行政の記録や被爆体験手記などが保存されていれば、資料を丹念に集め、読み込むことで明らかにできる事実があると確信した。
追悼平和祈念館は、被爆者援護法が規定する「原爆犠牲者の銘記」などを担う施設として02年に広島、翌年長崎に設置された。その事業においては一定に国の役割を果たしているが、より広義の、原爆被害に対する「国の責任」となれば、被爆地から厳しく問わざるを得ない。
戦争を遂行した国として、海外の激戦地で行う戦没者の遺骨収集事業にならって国内でも何かできないのだろうか。素朴な問いを厚生労働省に投げかけた。社会・援護局事業推進室によると「原爆被害も『一般戦災』。遺骨収集をやるならば、地方自治体ではないか」。根拠法は「行旅病人および行旅死亡人取扱法じゃないかと」。突拍子もないが、市民が被った戦争被害は国のせいにせず皆で我慢すべきもの、という「受忍論」と表裏一体だ。
政府は戦後、原爆犠牲者数の全容調査に率先して取り組もうとしなかった。被害実態が明らかになれば、原爆を含めた一般戦災への国家補償を求める声が高まりかねない、という本音を政府の開示文書から取材班は洗い出した。
国は、通常兵器にはない放射線による被害に着目し、それを「特殊の被害」と位置づけることで空襲などの一般戦災者との分断を図った。かくして、自らは被爆していない原爆孤児など多くの遺族が原爆に人生を変えられながら、国の援護から排除された。他方で、放射線被ばくによる健康被害も、救済範囲は絞られてきた。「黒い雨」を浴びた住民らは一部を除いて援護の蚊帳の外に置かれ続けている。
原爆がもたらした悲惨は決して過去でなく、今、ここにある苦しみだ。声なき死者の無念と、遺族の悲しみを忘却の中に埋もれさせてはならない。そう痛感させられることの連続だった。連載が回を重ねるうちに、取材班の問いが読者に伝わり始めたように思う。記事に背を押され、医師として救護活動後に亡くなった父の名前を原爆死没者名簿に登載申請した読者は「一人の名前の『空白』を埋めることの大切さを思いました」と話してくれた。
私たちは、思いを新たにしている。市民を無差別に殺し、苦痛を強いる戦争と核兵器を決して許容しない、と。

被爆前の広島をウェブ上で再現

「ヒロシマの空白」は中国新聞の原爆平和報道にとって新たな試みの場でもあった。紙面展開と平行して「街並み再現」と銘打ったウェブサイトを開設。被爆前の広島市内を捉えた写真の提供を呼び掛けるとともに、グーグルマップ上に配置する取り組みを始めた(https://hiroshima75.web.app/)。

被爆前の広島の街と暮らしを記録する写真が、読者から多く寄せられた。
紙面連載と連動してウェブサイト「ヒロシマの空白 街並み再現」を開設し、
グーグルマップ上に配置。その数は千枚を突破した(中国新聞社提供)

被爆前の街の姿を知ろうにも、資料自体が焼失している。ただ、空襲に備えて家財道具を郊外に疎開させていた市民の手元には古いアルバムが眠っているかもしれない。写真を通してせめてもの「街並み再現」ができないか。
それらは「資料」として貴重であるだけでなく、持ち主にとって原爆に奪われた家族との思い出そのものだ。逆に、遺品整理で廃棄寸前だった一枚もあった。「9割方捨ててしまったところで記事を読んで……」と連絡してきた被爆者もいる。
写真収集の担当として桑島美帆、新山京子の両記者も取材班に加わり、持ち主の被爆体験や亡き家族への思いを聞き取っている。市公文書館や原爆資料館、市郷土資料館など専門知識を持つ公的機関の協力を得ながら、一枚ずつ鑑定して現在地を特定。ウェブ掲載は千枚を突破した。
スキャンだけでも相当の作業量だが、読者からの情報提供と反響に励まされている。写真の中に、自らの記憶の中にだけ残っていたわが家のたたずまいを見つけた被爆者が万感の思いを語った。最近、原爆供養塔の辺りにあった慈仙寺の本堂内部の貴重な写真が寄せられた。確認されたのは初めてだ。
一見、懐かしさを誘うプリントの数々。しかしそれは、理不尽にも後に焼き尽くされてしまう市民の日常である。原爆が、戦争が奪ったものは何だったのかを、私たちに突きつける。
原爆の体験者は少なくなり、年月という壁は年々厚く、高くなる。なおも「ヒロシマの空白」を埋めようと私たちがこだわるのは、中国新聞社自体が原爆被害の当事者であるからにほかならない。
社員の約3分の1に当たる114人が死亡し、爆心地から約900メートルにあった当時の社屋は全焼。焦土から立ち上がっていった。原爆平和報道での新聞協会賞受賞は今回が5度目となる。「ヒロシマの空白」は、歴代の先輩記者、被爆地の研究者、被爆者と市民による追究の積み重ねを引き継ぐ取材だ。「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか」。故金井利博元論説主幹の言葉が変わらぬ道しるべとなっている。
1万発を超える核兵器が世界を脅かし、核兵器の非人道性をどの国よりも知るはずの日本は、米国の核抑止力に頼る政策を堅持している。被爆者の悲願、ともいえる核兵器禁止条約は来年の発効が確実な状況だが、ヒロシマ・ナガサキの人間的悲惨を決して繰り返させない、という被爆地の報道の使命は果たされていない。「75年」以降も、「空白」と向き合っていく。

<筆者プロフィール>

金崎由美(かなざき・ゆみ)氏

中国新聞社
編集局報道センターヒロシマ平和メディアセンター長
「ヒロシマの空白 被爆75年」「ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現」の取材班代表として、2020年度新聞協会賞を受賞。

(2020年11月6日)