NSK ニュースブレチン オンライン
2002年3月

-------------------------------------------------------------------
*46万人が日本の新聞配達を担う 新聞販売店従業員総数調査から
*ボーン・上田賞 朝日新聞アジア総局長と共同通信モスクワ支局員に授賞
*日米記者交換計画で記者が相互訪問
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
*Topics
--毎日新聞社が4月に専門記者制度発足
--信濃毎日新聞記者、冬季オリンピック競技に出場
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
今月の話題>>>
 低迷続く新聞広告
-------------------------------------------------------------------

46万人が日本の新聞配達を担う 
新聞販売店従業員総数調査から

 日本で発行される日刊新聞5368万部(朝・夕刊セット紙は1部と計算)の93%は、新聞販売店によって直接読者の手元まで届けられている。新聞の配達網は全国津々浦々に及び、1世帯あたり1部を超える高い新聞の普及率を支えているのが、この戸別配達制度だ。

 その新聞配達を担っている新聞販売店従業員の数は46万4827人。新聞協会が2001年10月に実施した調査の結果明らかになった。

 新聞は、新聞発行本社から新聞販売店に直接届けられ、販売店従業員の手で配られる。朝刊は朝6時ないし7時ころまでに読者の家の新聞受けに入れられる。勤めに出る人も、家を出るまでに新聞に目を通せるよう、配達時間は厳しく管理される。

 その配達業務を中心となって担っているのは、パートの女性で42%。ついでパート男性が29%である。本調査の第1回が行われた1963年は、新聞少年(18歳未満の中学・高校生)が73%を占めていた。新聞少年は年々、その数もウエートも下げて来て、今回調査では8%にまで減少した(図参照)。それに代わり中心になったのがパートの女性だ。比較的短時間で収入が得られるため、家庭の主婦にも格好の仕事になっている。

 ここ数年、従業員の数は若干減少気味にあるが、新聞少年に代わっておとなの従業員を増やし、新聞用紙の軽量化を進めて配達労務の軽減を図るなど、配達システムを守る努力が続けられている。


ボーン・上田賞を2氏に授賞
 朝日新聞アジア総局長と
 共同通信モスクワ支局員

「ボーン・上田記念国際記者賞」選考委員会は2月14日、2001年度の同賞を、朝日新聞アジア総局長の宇佐波雄策(うさなみ・ゆうさく)氏と、共同通信モスクワ支局の及川仁(おいかわ・ひとし)氏に授与することを決めた。

 同賞は、優れた報道活動で国際理解に貢献したジャーナリスト個人に贈られる。

 宇佐波氏は、20以上一貫してアジア報道にかかわり、各地域の政治、経済、社会問題の報道にとどまらず民族、宗教、歴史に深い関心を寄せ、住民の息づかいや社会のにおいが感じられる文化的な記事を数多く執筆。またアフガン危機が始まるとイスラマバード、次いでカブールから、多民族社会の底流を踏まえた深みのある報道と論評を続けたと評価された。

 及川氏は、米同時テロ後の9月22日、アフガニスタン北部に入り、日本の他社が現地入りするまでの約2週間、日本人の目でアフガン情勢を日本に伝える貴重な存在となった。また、10月7日夜、米軍によるカブール空爆が同日深夜にも開始される可能性があると速報。空爆は間もなく開始され、他国の報道界からも高い評価を受けたことなどが授賞理由。

 この賞は日米協力による自主的な世界ニュース通信網の確立に献身したマイルズ・W・ボーンUPI通信社副社長と上田碩三元電通社長が1949年1月、東京湾の浦安沖で突風により遭難されたのを惜しみ、両氏の業績を顕彰するため、日本の報道界およびボーン未亡人の拠金により、アメリカのピュリツァー賞にならって、1950年に設立された。毎年度、優れた報道活動で国際理解に貢献したジャーナリスト個人に贈られている。電通は、共同通信、時事通信とともに戦前の同盟通信社を前身とする。

宇佐波 雄策(うさなみ・ゆうさく)氏 略歴


1945年11月3日生まれ、福岡県出身、56歳

1969年京都大学文学部美術史学科卒業、同年朝日新聞社入社、1977年大阪本社社会部、86年東京本社外報部、87年アジア総局バンコク特派員、週刊誌「アエラ」編編集長代理などを経て95年ニューデリー支局長、2000年アジア総局長兼ハノイ支局長


及 川   仁(おいかわ・ひとし)氏 略歴


1961年11月30日生まれ、岩手県出身、40歳

1985年早稲田大学第一文学部露文専修卒業、同年共同通信社入社、川崎支局、千葉支局を経て92年ロシア国立サンクトペテルブルク大学に留学。93年外信部、95年ベオグラード支局長、98年モスクワ支局員。


日米記者交換計画で記者が相互訪問

 新聞協会の2001年度日米記者交換計画で米国記者団のメンバー6人(写真)が2月13日来日、27日の離日まで、各界要人への取材や、沖縄、京都の視察など精力的にスケジュールをこなした。

 「日本はアジアとヨーロッパがミックスされている」(クリスチャン・サイエンス・モニター紙のリンダ・フェルドマン論説面編集長)、「日本の政治・経済状況や日米関係に関する取材をした。日光東照宮の三猿に興味があったので、民俗学の専門家から話を聞いた」(シカゴ・トリビューン紙のマイケル・マクガイア編集局次長代理)などと語った

 一行は、東京で、中山太郎衆議院議員(日米議員連盟会長、憲法調査会会長)産経新聞東京本社、NTTドコモなどを訪問した後、2月19日から3日間沖縄を訪れ、地元紙の琉球新報社や沖縄タイムス社の記者との懇親会に参加、普天間基地、首里城、平和記念公園などを訪れた。その後、4日間京都に滞在し、帰京して明石康・元国連事務次長と懇談した。

 日本側記者団6人は2月13日から米国を訪問、国防総省、ニューヨーク・タイムズ、CNN、シアトルタイムズなどを訪れ、テロ後のアメリカを視察した。日米両国の記者団は2月28日から2日間、ハワイの東西センターで総括討議を行った。

 本交換計画は、新聞協会と米国ワシントンにある記者研修組織ICFJ(International Center for Journalists)とハワイ大学東西センターとの協力プロジェクト。1970年、両国報道機関の編集最高幹部がハワイで第1回日米編集者会議を開催した際、折からの日米繊維戦争などを機に認識された日米間の情報ギャップを埋めるため、両国間の相互理解促進を目指し、提案されたもの。

アメリカ側参加者は写真左側から次のとおり。

Ms. Linda FELDMANN, Opinion Page Editor, The Christian Science Monitor
Ms. Stephanie SHAPIRO, Features Reporter, Baltimore Sun
Mr. Stephen SEPLOW, Freelance, Former Reporter/Editor, Philadelphia Inquirer
Ms. Trinh LE, Editor, Fort Bend/Southwest Sun, Houston Community Newspapers
Mr. Michael McGUIRE, Deputy Associate Managing Editor, Chicago Tribune
Mr. Frank CRAIG, Editor, Pittsburgh Tribune-Review


Topics.......Topics.......Topics........

毎日新聞社が4月に専門記者制度発足

 毎日新聞社は4月から、専門記者制度をスタートさせる。「毎日新聞の顔」を作り、記者個人の名前で読者を引きつけるのが狙い。15人程度置く。

 専門記者は「専門編集委員」(部長職)と「特別編集委員」(局次長職)の2種類。現在の編集委員とは別に設ける。

 副部長以上の記者で、本人が希望し所属長が認めた者、または所属長が推薦した者が対象で、?特定分野の知識や判断力、取材力、表現力が報道界全体の中で一流の水準にある?本紙をはじめ社の出版物等に積極的に執筆し、その業績を通じて社業の発展に貢献する?組織人として、人格的にも優れている――ことが求められる。

 毎年2月に主筆が主宰する認定会議で決定する。認定会議は毎年、専門記者の業績を評価し、業績次第では取り消すこともある。専門記者には、編集委員よりさらに高度な内容の記事の執筆が期待されている。

信濃毎日新聞記者、冬季オリンピック競技に出場

 2月8日から24日まで米ソルトレークシティーで開催された冬季五輪に新聞記者が選手として参加、話題を集めた。そり競技「女子スケルトン」の日本代表になった信濃毎日新聞社文化部の中山英子記者(31=写真・共同提供)は、20日の試合で12位の成績を残し、ソルトレークシティーを去った。

 中山さんは信濃毎日新聞社で芸能欄や家庭欄を担当する記者。1998年の長野五輪開催時は運動部に所属し、そり競技のボブスレーやリュージュを取材した。当時スケルトンは五輪の正式種目ではなかったが、苦労しながらも競技に打ち込む越和宏選手に出会い、その生き方にひかれ、自分自身もアスリートへの道を歩み始めた。

 スケルトンはスタート時の加速が大きなポイントとなるが、中山さんは高校時代は短距離走者。朝は自宅近くの石段の上り下り、夜はトレーニングジムに通い、シーズンに入ると有給休暇を利用して遠征に出かけていた。

 過去の「五輪記者」の例としては、1928年のアムステルダム大会(陸上女子800メートル)で毎日新聞の記者だった人見絹江さんが銀メダルを獲得した。

 中山記者は「スポーツのすばらしさ、メディアの姿など、五輪でさまざまなことを体感できた」と語っている。


今月の話題>>>

低迷続く新聞広告


 昨年春以来、新聞広告が低迷を続けている。日本経済はデフレスパイラルから抜け出せず、今年に入ってさらに谷は深くなってきた。

2月に発表された電通の「2001年 日本の広告費」によれば、総広告費は前年比0・9%減の6兆580億円で、2年ぶりに減少となった。新聞広告は、3・6%減の1兆2千27億円で、媒体別広告費に占める割合は19・9%とついに2割を切った。

 新聞広告費の推移を見ると、1998年、99年は前年割れとなったものの、2000年には、緩やかながら日本経済の景気回復軌道にのって、前年比108.1%増となった。

 衆議院選挙、シドニーオリンピック、BSデジタル放送開始などのイベントが好調要因だった。

 しかし、その後、IT需要の減速、雇用・所得環境の低迷など、日本経済は思うように浮揚せず、昨年夏には暗転した。後半、企業収益の悪化は避けられない状況となり、9・11の同時多発テロで、期待されていた米国の景気回復も大きく遅れた。国内でもBSE(狂牛病)問題が発生、消費は低迷し、失業率は上昇した。

 こうした状況を受けて、広告出稿量も、昨年7月以降対前年比の減率は次第に拡大、特に全国紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)は6%台の大幅減率に至った。売り上げベースでも前年比9割から6割程度に落ち込んだ。

 広告主の業種を見ると、2000年に活況だった「情報・通信」は昨夏以降20%以上の出稿減が続いている。「金融・保険」「不動産・住宅設備」も10%台の前年割れで、新聞の得意業種「出版」「自動車」も軒並みダウンした。

 経済環境の悪化に伴い、広告主企業の合併・再編が進み、従来の広告ソースは減る傾向にある。企業内では販売促進に直結する宣伝広告へのニーズがますます高まっている。苦しいのは新聞媒体だけではないが、局面打開のためには、新しい広告ソースを開拓し、広告効果を示すためのきめ細かい媒体データを開発することが求められる。

 一例を挙げれば、ここ2年ほどの間に新しい新聞広告として注目されたのが治験広告だ。「治験」とは、新薬の臨床実験のことである。日本では長く、治療の延長で治験が行われていたため、治験データの信頼性が低かった。新薬申請まで10年、15年とかかった。こうした状況に危機感をもった関係者の働きかけで1999年厚生省(現厚生労働省)は、「治験者公募は薬事法違反とならない」とする通達を出した。この規制緩和を受けて、製薬会社は、うつ病、不眠症、アトピー性皮膚炎などの治験募集広告を次々に新聞に出すようになり、大きな反響を呼んだ。社会性、説明機能など、新聞の特性を生かした新しい広告が誕生した。

 健康情報、医療情報へのニーズは高まっており、ヘルスケアマーケットは今後期待できる市場だろう。政府のデフレ対策の効果も見えないなか、新聞は、自らをより魅力的に表現するセールストークとデータで「武装」しなければならない。

Nihon Shinbun Kyokai
The Japan Newspaper Publishers & Editors Association
Nippon Press Center Bldg., 2-2-1 Uchisaiwai-cho, Chiyoda-ku,
Tokyo100-8543, Japan

bulletin@pressnet.or.jp.

Copyright 2002 Nihon Shinbun Kyokai
All right reserved