シンポジウム採録「ニュースや知識をどう支えるか」

新聞は民主主義のコスト デジタル時代の役割を討議

新聞協会主催の公開シンポジウム「報道とつくる『知』の空間―人口減少社会とデジタル時代に考える」が2014年11月21日、東京・千代田区の一橋講堂で開かれ、一般読者ら215人が参加した。文字・活字文化推進機構と共催。増田寛也元総務相ら登壇者からは、人口減少やインターネットの普及で苦戦する新聞に対し、民主主義のコストとして認識されることを目指し、質の高い記事を読ませてほしいといった要望が相次いだ。

〈パネリスト〉
増田 寛也 氏(日本創成会議座長、元総務相)
杉本 誠司 氏(ニワンゴ代表取締役)
阿刀田 高 氏(作家、文字・活字文化推進機構副会長)
香山 リカ 氏(精神科医、立教大教授)
〈進行役〉
小川 一 氏(毎日新聞東京本社執行役員編集編成局長)
(順不同、文中敬称略)

小川 新聞はこの10年間で約600万部、部数が減っている。全国にある県紙の多くは20~30万部だ。地方にもしっかりとした言論機関があり、精力的な報道を続けているが、600万部減ったということは、20都道府県が新聞の空白地になるということで、新聞は厳しい状況にある。

書籍、雑誌の売り上げはさらに厳しい。ピーク時は1996年だったが、約18年で売り上げが63%になった。街の書店はどんどん姿を消している。一方、デジタル化は急速に進んでいる。スマートフォンの1日の利用時間は、20代女性で平日は110分強だ。新聞はまだデジタルとの付き合い方が分かっていない。情報が無料で手に入る状況の中で、活字文化が急速に失われている。

増田 人口減少の要因は、20~39歳の女性の減少と、地方から大都市圏、特に東京圏への若者の流出の二つだ。

2040年には全国の1799ある市区町村のうち896が消滅可能性都市になる。そのうち523は、とりわけ消滅の可能性が高い。消滅可能性都市とは、人口がゼロになって消滅するのではなく、20~30代の女性が半減する自治体のことだ。仮に30年先に半減する自治体が人口を維持しようとすると、合計特殊出生率を3以上にしなければならない。日本は今1.43だ。国を挙げて対策に取り組んできたフランスが2.01で、北欧が1.9だ。

市区町村の消滅を避けるには、少子化対策と合わせて、東京一極集中を解消する対策をとらなければならない。特にバブル期以降は東京圏だけ人口が増えている。東京五輪の誘致が決まって、さらに伸びている。住民票の異動が多いのは20~24歳、15~19歳で、就職や大学進学に伴うものだ。異動先である東京は、住宅は狭く、生活に要する費用が高い上に、保育所も足りない。出産する条件が悪い地域だ。

人口減少は避けられないが、今のような形で減ると、国土利用と年齢構成のアンバランスをもたらす。経済規模も小さくなり、所得も維持できなくなる。経済だけでなく、地理的にもまばらになり、国土の荒廃を招く。

新聞は人口減少がなぜ起きるのかという基本構造をはじめ、良いことなのか悪いことなのかを考える材料を提供してほしい。このような現象が起こっていることは、実は昔から分かっていた。政治家や行政のトップ、メディアが、この問題は深刻だともっと早く取り上げ、警鐘を鳴らすべきだった。最近取り上げられることが増えたので、これを契機に必要な議論ができるようになってほしい。

人をつなぐ情報の質が変容 「紙」による知の分配、衰退を危惧

阿刀田 山梨県立図書館の館長に就任して2年たった。新築移転時に、甲府市を中心とする地方都市の知の空間を作ろうというアイデアがあり、その実現に取り組んでいる。

新しくなった図書館は、以前の3倍の人が利用している。特に力を入れたのは、東京から作家を呼んで講演してもらい、地元の人と話してもらうことだ。また、図書館には八つ会議室があるので、開放して地元の人たちに使ってもらっている。図書館に入ってきた瞬間に、ここは知的な空間だなと、今までとは違う形で感じてもらいたい。甲府は活気づいても、それ以外の地域はどうなのかという課題に直面している。

知というテーマで、二つの側面を痛感している。本当に皆さんは知を求めているのか。私は非常に大切だと考えるし、本気で求めてほしいと思っている。しかし、男性誌もそうだが、女性誌を見ると、どうすれば器量がよくなるか、どうしたらおいしい食べ物が食べられるかといったことばかりだ。

もう一つは、その知を分配する方法として、紙の文化が衰えようとしていることだ。パピルスから始まって2千年、私たちの文化そのものを育んできた紙と知性は、知らず知らずに関わりを持っている。2千年にわたり人類の財産としてきたものが、案外気付かないところで微妙に失われていくのではないかと心配している。

杉本 新聞そのものは否定しない。部数減は世代交代によって、情報をどう摂取し、消化するかのプロセスが変わってきていることが要因だ。昭和の時代は新聞しかなかったから、みんな購読していた。そこから10、20年たち、社会インフラが激変している。多くの流通をつかさどる機能がインターネットに変わってしまったという現実がある。

時間感覚も変わった。今、ほとんどの人が自宅にいない時間が増えている。こうした中で、これまで日常的にやってきたことが破壊され、なんとなく手元に近いものに代用されてしまった。人々は新聞やテレビで摂取した情報をどのように活用しているのか。極端に言うと人と話すためのネタになっている。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が急速に普及する原動力になっているのは、そうした欲求だ。

今まで情報のベースを担っていた新聞やテレビからのアップデートは、1日1回か2回だった。それでも良かったのは、当時は人と会って話す時間が限定的だったからだ。今は仕事中でも食事中でも、SNSなどを通して常に人と寄り添っており、コミュニケーションが発生している。そのために情報を摂取しなければならない。

新聞やテレビの情報では追い付けない。そうなると、今この水を飲んでいますとか、これを食べていますといった、ある種どうでもいい情報が更新される。ただ、それはその人にとっては、他者とコミュニケーションをとる上で非常に重要な情報になっていく。

そうした中、公共性の高い情報と、ある種どうでもいい情報が混ざって推移するようになった。だんだん手元に近い情報をとるようになり、新聞でアップデートされるような遅い情報は、選択肢の中から落ちてしまう。そうなると、否定しているわけではなく、選択肢にあることすら気付かなくなってしまう。その結果、需要が減ったのではないか。

ネット上でデジタル化すれば何でも歓迎してもらえるかというと、そうではない。ネットで多くの人の心をつかむ情報は非常に限定的だ。重要なのは情報のクオリティーではない。それよりも、関係性を維持するための機能を実装しているものが求められる。それが良いか悪いかは別の話だ。
新聞を人と話すための情報を摂取するものと考えるなら、その機能はデジタルの中にも息づいている。ただ、それは新聞社の想像するものとはかけ離れている。

SNSの世界では、今日のお昼に何を食べたかといった情報を受け取ることは、新聞から発信される情報と変わらない。新聞社から見たらおかしいと思うだろうが、情報を摂取するエンドユーザーにとっては同じレベルだ。そういった空間に入っていこうとするならば、商品構成や情報構成を変えていかなければならない。これまでの情報を持って、あるいは情報を伝達して消費されるプロセスを維持しながらデジタル空間に入っていくのであれば、違う空間を作っていく必要がある。

新聞は30代以下の生活圏から外れている。いかに生活圏に入るのか考えることが重要だ。報道や公共性を担うといった役割を考えることとは分けて、人々をつなげる情報としてどうやって入っていくのか考えるべきだ。

香山 知というものが変質しているのが大きな問題だ。杉本氏は従来の知は必要なのかという話で、阿刀田氏は必要だと言っている。私は知の在り方が変わってきていると思う。

例えば、学生に卒業論文の指導をしていて感じるのは、先行研究を調べるのが下手だということだ。その場で思いついたことばかり書き、知性が下がっていると感じることもある。しかし、インターネットの検索を素早くこなし、私が見つけられない資料を探し出す。私は知の蓄積というものを全く考えられない学生を見て知性が劣化したと思うが、学生はネットを使いこなせない私を情報弱者だと思うだろう。

学術専門誌、論文など、さまざまな分野の学術資料を検索できる「グーグルスカラー」のトップ画面に「巨人の肩の上に立つ」と書いてある。学問というのはゼロから何かを発見することではなく、先人の発見に付け加えることだという考え方で、これは従来型の知だ。しかし、今はいかに知識や知恵を集積しているかではなく、最新の情報を無料でやりとりすることができるかを知という。本は無料でなく、リアルタイムでも双方向でもない。新聞はかろうじてリアルタイムだが、双方向性はなく、無料でもない。

従来のアカデミズムに対する要求が少なくなっていることには、さまざまな危険性や問題点がある。ネットの中に住んでいるならよいが、それが現実の行動になると問題が起きる。ヘイトスピーチもそうだ。歴史や世界情勢など従来の知を持ち出して危険だと説得しようとしても、まったく通用しない。新聞は従来の知より今の知に合わせるべきなのかというと、私はそう思わない。切り分けて考えるべきだ。

新聞の価値は賞味期限の長さ ネットと違う活字の在り方を

小川 情報インフラは世代間で違う。それぞれの情報摂取でよいのか。新聞への注文を聞きたい。

増田 新聞の役割は、できるだけ真実の輪郭をはっきりさせることと、権力の監視にある。これが成り立たなくなる可能性がある。今急速に人口が減っているため、制度やインフラ整備が追い付けていない。高齢者は情報や文化に接する機会をどんどん奪われているが、それでよいのか。対抗手段を生み出していくことが大切だ。

阿刀田 新聞と本は、情報を提供してくれると同時に考えることを提供してくれる。デジタルでもできないわけではないが、しっかり情報を受け止めるなら新聞や本がよい。知は最終的にクリエーション(創造)に結び付かないといけない。情報は情報にとどまるべきではなく、思索につながることが大事だ。

小川 紙の特性として大切なのは電源がなくても読めるということだ。東日本大震災の際、被災地にボランティアで行ったが、停電の中、被災者の方々は紙の新聞を熱心に読んでいた。電源がなくても読めるというのは大切な性質だと実感した。
一方、杉本氏の指摘のように、デジタルの中の居場所、今に適応した形の新聞の在り方も必要だ。

香山 新聞は原理主義であってほしい。知の在り方が変容している中で、新聞もデジタルの流れに近寄っていこうとしているが、こういう時代だからこそネットとは違う活字の在り方を目指してほしい。新聞らしさというのは、匿名ではないことだ。社名を背負っているだけでなく、署名記事も増えてきている。責任をもって記事を書く。そういった良さを、堂々と誇りを持って打ち出してほしい。

朝日新聞の誤報問題は残念だったが、さらに残念だったのは批判合戦が起こったことだ。足を引っ張り合っている場合ではない。朝日の危機ではなく新聞界の危機と捉え、信頼を失っているときだからこそ新聞そのものを世間にアピールするチャンスだったと思う。そうならずに残念だ。

小川 朝日の誤報をめぐっては雑誌や一部の新聞でバッシングが起きた。それぞれ個別の事情があるだろうが、一歩引いて世の中がどう見ているかを考えると、みっともないことをしてしまったと一人の記者として思う。そんなことをしている場合かという点から考えると、新聞社でなく新聞という機能を守る時代にきている。新聞は再販・特殊指定で守ってもらっている部分があるし、軽減税率を求めたりもしている。今後も社会から守ってもらえる、この機能は大切だから残そうと思ってもらえるようにするにはどうすればよいのか。

杉本 原理的であれというのはいいと思う。紙でも新聞としての機能でもいいから、新聞を楽しもうというコミュニティーを作っていく。この場合、各新聞社の企業としての収益性は別の話だ。まず新聞が残っていくことが大事。マスではなく、深く濃密な担い手を育てることが大切だ。

香山 新聞を作っている人は正社員で、購読料の月4千円は高くないと思うだろうが、若い人たちにとっては大変な負担だ。それを自覚して、新聞でしか読めない記事を読ませてほしい。

増田 新聞の機能といえば、一覧性だ。一つの事柄について多様な視点を示せる。批判が目に入りやすいのも特長だ。ネットだと、自分の主張に近いところに寄っていきやすい。

新聞記事は賞味期限が長いことに価値がある。民主主義を守るためにはコストが必要だ。月4千円がそのコストだとすれば、決して高いものではない。