作品一覧
大学生・社会人部門
最優秀賞
『心を込めた言葉』
髙橋 由美子(47歳) 仙台市青葉区
叩きつけるように降る雨。幾度となく転んだ雪道。挫(くじ)けそうな自身を励ましながら、次のポストを目指す。
夜明けの時刻が早くなり始めた春の朝、ポストの上の小さな貼り紙を見つけた。“ご苦労様ありがとう”思わずおじぎして恐縮する自分がいた。「こちらこそ、ありがとうございます」と。お目にかかったことはないけれど、この新聞を待っていてくださる方がいることを改めて強く感じ、嬉しくなった。その日から、その言葉を目にする度に小声であいさつをした。そのうちに、次のポストの前でも、また次のポストの前でも口にするようになっていた。
小さい頃、母が教えてくれた。「心を込めた言葉を使えるのは、人間様だけ。ありがとうとおかげさんは、日に何遍言ったって罰なんどあたらないから、たくさん口にしなさい」と。
労(ねぎら)いの言葉をいただくことも、こちらから感謝を伝えることも、自身を穏やかにし、行いを和らかくしてくれる。そして何より、その言葉に心を込めると、自然に笑顔になっている自分がいる。小さな貼り紙のその言葉は、私の心に潤いをくれ、忘れそうになりかけていた大切な事を思い出させてくれた。
さあ、今日も心を込めたあいさつをすることから、一日を始めよう。
優秀賞
『配達員様』
青栁 真理(31歳) 佐賀県唐津市
一人暮らし、八十二歳のおじいちゃんが筆をとった。宛名は、「配達員様」。それはポストに貼り付けられていた、父への手紙だった。
「急な病等で自分が死亡した場合、何日も分からない場合があると困るので、新聞を配達される時に前日の新聞がそのままになっておりましたら、警察に知らせてもらえないでしょうか」。玄関の鍵の場所と警察の電話番号が示されていた。それはまるで、父へ託された遺言状のような手紙だった。
三か月後、受け取った新しい手紙には、父を気遣う言葉と、自分の幼い頃の新聞配達の思い出いっぱいの文章が書かれていた。それから少しずつ、おじいちゃんとの交流が始まり顔見知りになった。おじいちゃんから受けとる手紙の宛名は、配達員様ではなくなった。
毎日の新聞配達が誰かの安心や信頼を生み、また、人の幸せや不安、喜びを知っていけるということを感じた出来事だった。
審査員特別賞
『家族の助け』
遠藤 里美(35歳) 仙台市青葉区
妹は突然新聞配達を始めた。早起きが苦手な妹のことだ、どうせすぐ音をあげるだろう、私は特に気にもせず妹を静観していた。一か月が過ぎた頃、妹は案の定寝坊してバタバタと新聞配達をし始めた。揚げ句の果てに、父や母まで駆り出して、自分の区域を家族へゆだね始めたのだ。雨の日などはひどいもので、父が代わりに配達を行っていた。
いつもなら、行き過ぎた行動を取る妹を説教する私だが、この時ばかりはお正月の配達を、私までが手伝った。
妹が中学一年の頃、家庭の金銭問題で、父と母は離婚するしないでもめていた。私はもう高校を卒業していたので離婚することに同意したが、妹は断固反対した。
「私が家計を助けるから離婚しないで」
こうして始まった新聞配達は、皮肉にも静まり返ったわが家族を「やれやれ」と笑わせた。三年間、家族の助けを借りながらも続け、あれから何十年、いまだに父と母は夫婦です。
入選(7編)
『店主の気遣い』
安藤 知明(69歳) 大阪府豊中市
「小学生はダメ。中学に入ってから来な」と、新聞販売店の店主は、にべもなかった。おとなしく引き下がったが、三、四日してまた訪れた。「この間も来てたよね、配達には体力がいるんだよ。小学生はまだ体力がないからなぁー」
ちょっと涙が出そうになった。「どうしたんだい?」と店主が聞いた。「中学に入るのに、学生服がないのです」と言うと、「それなら、お金は貸してあげるよ。中学生になって新聞配達をして、それで返してくれたらいいよ」と頭をなでてくれた。
学生服を着て、晴れて中学生となった。あいさつに行くと、「夏休みが終わってから始めてもらおうか」と気遣ってくれた。
店主からなにかと目をかけてもらい、中学の二年半にわたって新聞配達をした。卒業して隣村の高校に通うことになった。店主から通学用の自転車が届けられ、その配慮に泣いた。
『父の気持ち』
片桐 きん子(39歳) 愛知県一宮市
私の父は今年一月に亡くなる前日まで、約四十年間新聞配達をしていました。体調が悪くても休むことなく新聞配達をしていました。
そんな父を私は心配で、いつも「無理しなくていいよ」と声をかけていました。その時、父は「働かせてもらえてありがたい」と言っていました。
そして父は、突然亡くなり、やはり無理していたんだ、早く仕事を辞めていればよかったのに、と思っていました。二月中頃、私の知らないお客様から手紙が届きました。内容はお客様が家庭の事情が大変だった時に、父から「人生、山あり谷あり」「頑張れ」と励ましてもらったこと、父がお客様から「身体に気をつけて」と声をかけられ、涙ぐんでいたこと、お客様のお子さんと遊んでいたことなどだった。
家での父は無口だったので、新たな父が分かってうれしかったと同時に、そのような人との触れ合いが楽しくて仕事を続けてこられたのだなぁ、と思いました。
その手紙のおかげで、父がなぜ配達を続けられたのか分かりました。あらためて父を誇りに思います。
『待っていてくれる人のために』
斎藤 邦子(35歳) 福島県福島市
夫が配達に向かった。今日は雪も雨も降ってはいない。でも放射能が降っている。
三月十一日の震災から繰り返し起こる大きな余震と放射能への恐怖。
私は家に一人でいることさえ不安で、配達も仕事も休んで家にいれないのか何度も聞いてしまった。夫は言った。
「新聞は紙不足でどんどん薄くなっていく。でも一人でも待っていてくれる人がいる限り配達するよ。今こそ新聞屋の底力を見せる時なんだ。これが俺の使命なんだ」
私は思い出した。震災の夜、地面は揺れているのが当たり前だったのかと感じるほど強い余震が続いていた。眠れぬ夜が明けると、玄関先でゴトンと音がした―新聞だ。
こんな時でも変わらず働く人がいる。変わらないことがある。その音はどれだけ私を勇気づけたことか、私と同じような朝を迎えた人がどれだけいただろうか。
私は二度と夫に配達に行かないでとは言わなかった。
今日も夫は新聞を届けている、底力の音を響かせて。
『わたしの初恋』
櫻井 東子(38歳) 北海道河東郡音更町
わたしが新聞配達を始めたのは中学二年生の時でした。母子家庭でしたので自分で「お小遣いを稼ごう!」と、恥ずかしかったけれど、はりきって始めました。
夏は小鳥のさえずりや、緑の山々が朝日に照らされて、とても気持ちがよかった。クモが嫌いな私は、クモの巣にひっかかり「きゃー!!」と悲鳴を上げることもしばしばでした。冬になり、まだ外は真っ暗で怖い気持ちを押し殺し、鼻歌を歌いながら頑張りました。配達を終え家に帰ると、母が私の冷え切った手を握り、温めてくれました。そんな大好きだった母も亡くなりました。
ちょうど新聞配達を始めた年の冬に、ひとつ年下の男の子から生まれて初めて告白されました。彼はいつからか新聞配達を手伝ってくれるようになり、朝のデートが始まりました。北海道の氷点下の朝「おはよう!」と寝ぐせのままで暗い中、私が来るのを待っていてくれるのです。お互いの自転車のカゴに新聞を半分に分け、一年以上も一緒に新聞配達を手伝ってくれました。
バレンタインにチョコレートと手編みの手袋を渡すと、早速次の朝から身につけて喜んでくれました。
そんな私も今や家庭を築き、男の子を一人授かりました。あの少年のように優しくまっすぐに育ってくれますように…。わたしの大切な初恋の思い出です。
『あの日、あの朝ありがとう』
佐々木 美保(40歳) 福島県いわき市
「カタン…」それは毎朝、わが家のポストに新聞が届いた日常の音。
その音が三月十一日の朝で終わってしまいました。そう、何の知らせもなく、その仕様もなく…。それからの生活は天井の高い体育館での毎日。あまりにも一変した生活に翻弄(ほんろう)されながら。
しばらくすると避難所に新聞が届くようになり、部数の少ない新聞を皆で回し読みする姿が…。活字や写真から伝わるものが日常にこんなにも大きな影響を与えていたことを改めて知ったのです。そして毎朝、誰からともなく避難所の中から新聞配達員が生まれました。元々、新聞配達をされていた方、夫婦の方、中高生の子供たち、どの配達員さんも、「おはようございます」と、ダンボール敷の一軒一軒にあたたかくあいさつしながら…。毎朝毎朝、それは避難所の目覚めの朝五時半に。“今日も朝が来た!!”と心から実感した日々でした。本当にありがとうございました。
『新聞配達で教わった大人の自覚』
長崎 良夫(47歳) 静岡県賀茂郡河津町
「こんな遅い時間に配達されたんでは、朝刊ではない」
と大きな声でどやしつけられた。あまりのけんまくに、帰りは泣きながら家に戻った。中学一年生の春だった。朝寝坊するとそのおじさんの顔が浮かび、新聞配達を休みたくなった。
ある日、新聞配達の途中から雨が降りはじめた。ジャンパーでくるみ配達したけれども、最後の家の新聞は雨に濡れてしまった。また、そのおじさんに怒られる。そう思ったら、悲しくなってきた。案の定、家の前で立って待っていた。
恐る恐る「おはようございます。新聞が少し、濡れてしまいました。すいません」と言った。そのおじさんは、新聞を受け取るとタオルを貸してくれた。そして、「新聞配達は大人の仕事だ。新聞をみんなが心待ちにしている。しっかりやりなさい」と励ましてくれた。
恐いおじさんは、私を大人として扱ってくれた。そう思うと、朝寝坊はできなくなった。自分のやるべきことをやる。その大切なことを中学時代の新聞配達が教えてくれた。
『念願のスパイク』
頼富 雅博(50歳) 群馬県前橋市
中学一年の冬、野球部の親友と初めて新聞配達をした。朝五時に家を出て、朝練の直前までひたすら配り続ける。目標はスパイク。一年部員でスパイクを履いている者は数えるほどで、いつも先輩のスパイク姿に憧れて眺めていた。
生まれて初めての配達は驚きの連続だった。猛犬にほえられたり、朝帰りの酔っ払いに、「自転車で送れ」とからまれたりもした。本当に小さな失敗を重ねながら、三か月目の給料日がやって来た。それは、念願のスパイク代がやっとたまる記念日だった。
最後の配達を終え、荷台の太いゴムひもとカバーを販売店のおじさんに返し、「お世話になりました」と礼を述べた。「ちょっと待ってろ」とおじさんが奥に戻り、大きな箱を抱えて戻ってきた。
「よく頑張ったな」と渡された箱の中にはぴかぴかのスパイクがあった。そのおかげで目標のスパイクの他にバイト料でバットまで買えた。
働くことの意味と人の優しさを与えられた最初の日だった。
中学生・高校生部門
最優秀賞
『父の仕事から学ぶ』
昆 竜弥(17歳) 岩手県北上市
三か月前、東日本を大地震が襲った。町のほとんどの機能が停止した。僕の家は新聞店を営んでいて、僕も小さい頃からずっと手伝っているが、さすがに明日の配達は無理だろうと思った。
午前二時。いつものように起き出した父は、停電で真っ暗な作業場に懐中電灯をつるした。県外で印刷されたという新聞が、次々に届く。普段の使命感がこの時ばかりは揺らいだ。「今日は配らなくても…」と、思わず声に出た。
すると「今はラジオか新聞しかないんだ」と、父は手を休めず言った。本来は機械がやる作業をすべて手作業で片付け、母の運転する配達車の助手席に飛び乗った。
いつもの家の前にいつものおじさんが立っていた。新聞を渡すと、「大したもんだ、ご苦労さん」と肩を叩いてくれた。家族に新聞配達の大事さを身をもって教えてくれた父は、六月に急逝した。休みもたまにしかない厳しい仕事だが、僕たちの家庭の中心にあり、多くのことを教えてくれた仕事である。
優秀賞
『母への感謝』
玉井 真美(15歳) 愛媛県今治市
私の母は新聞配達の仕事をしています。私たちは島に住んでいるので、新聞が船で運ばれてきます。強風や波が高いときに船が欠航してしまうと、新聞配達ができません。そういうときは二日分配達したり、夜に配達したりします。
また、雨が降る日はカッパを着ていても、体も髪の毛もずぶぬれになって帰ってきても、愚痴を言っているのを聞いたことがありません。そんな母の姿を見ると、強くてかっこいいなぁと思います。
私は夏休みなどに新聞配達を手伝ったことがあります。私は少し配達しただけで疲れてしまいました。そのとき改めて新聞配達の大変さを感じました。毎日、新聞配達をしている母を尊敬します。学校の教室の窓から新聞配達をしている母の姿が見えます。
母が頑張っているから、私も頑張ろうと思います。普段は恥ずかしくて直接言えないけど、いつもありがとう。これからも体に気をつけて頑張ってね。
審査員特別賞
『私の日課』
齋藤 桃花(13歳) 北海道岩見沢市
新聞を読まなくなったのはいつ頃だろう。
テレビ欄さえも見なくなってしまった。小さい頃はよく親のまねをして、読むこともできない新聞を広げていたのに。
母とは、あまり口をきかなかった。話す話題もないし。なにより話しているとだんだん苛立(いらだ)ち、口げんかになってしまう。その頃は自分に余裕がなく、小さい頃の純粋で素直な気持ちを忘れていた。そんな時、私は学校の授業で、新聞社に川柳を投稿した。クラスメートの川柳も載っているから毎日そのコーナーをチェックするようになり、他の記事も読むようになっていた。
ある時、母と一緒にニュースを見ながら朝食を食べていると、新聞に載っていたことが話題になり、会話が弾んだ。ニュースのことで会話することはこれが初めてだった。どうしてかうれしくなった。
毎日届く新聞を読むことは、私の日課になっていった。その後、母と話すのが私の朝の元気のもとになっている。
入選(7編)
『未来へとつながる音』
阿久津 諒(15歳) 栃木県塩谷郡高根沢町
「あっ、新聞がきた」。かすかなバイクの音と小さくつぶやいた母の声を聞き、ようやく僕は深い眠りについた。三月十二日、早朝のことだ。前日におきた東日本大震災のため、震源から近い栃木県に住む僕の家も、一晩中停電のままだった。暗い中で余震がくる度に緊張し、僕も両親もほとんど眠れなかった。
停電でテレビもパソコンも見られず、携帯電話の充電もままならない中、新聞はまさに唯一の情報源であった。そして僕は、そんな非日常の中で、いつもの朝と同じように新聞が配達されたことにより、どれだけ安心し勇気づけられたことだろう。突然の大災害で混乱する中、もしかするとご自身も被災されていたかもしれないのに、悪路の中、新聞を届けてくださった方たちに感謝しないではいられなかった。
震災後の状況は知れば知るほどつらく、悲しい出来事であったが、僕たち子どもには明るい未来を、明日を作るチャンスがなくなったわけではない。あの日のバイクの音は、きっと未来へとつながっていると僕は信じている。
『希望の光』
市川 千裕(15歳) 茨城県笠間市
「今日はどんな記事が載っているんだろう」
私たちの朝は、新聞を読むことから始まります。私たちの生活に必要な情報を補ってくれる新聞。あたりまえのようで、それを支えてくれている人のことを改めて考えてみました。去る三月十一日、東日本大震災がおきました。
正確な情報も入らず、ただただぐちゃぐちゃになった家の中を見るばかりでした。そんな状況を変えたのは、新聞の配達でした。家族の中に、希望の光が差し込みました。「こんな状況の中で、がんばっている人もいるんだ!」。翌日から私は、家の中の片づけを始めました。落ちてしまったものをもとの位置にもどし、食料品を確保し、ラジオをかけました。今思えば、「新聞配達」が私たちを支えてくれていたんじゃないかな。そう思います。
その後も毎日あたりまえのように届く新聞。
私たちのところに新聞が届くまで、たくさんの人々が関わっています。そのことを忘れずに常に感謝していたいです。
『新聞は大事な情報源』
小川 茅奈津(14歳) 東京都西多摩郡奥多摩町
私の家は山の中にあります。そのうえ、比較的高い所にあります。周りに住んでいるのは、ほとんどお年寄りの方です。
だいたいの家では、新聞をとっています。外へあまり出られない分、皆さんには、新聞は大事な情報源です。テレビは「目がチカチカする」などの理由で、新聞の方をお年寄りの方は活用します。
自分で外へ出ることの難しい方たちにとって、新聞配達はとてもありがたいことです。朝早く来て、寝ている人が気付かないうちに静かに届けることは、一種のプロフェッショナルだと思います。
朝早くから一軒ずつまわるのは大変だと思いますが、ネットなどで情報を手に入れる今、そういう物が使えない人にとって、本当に新聞は大切です。
これから、さらに高齢化が進んで、新聞はさらに必要性が高まります。私が年をとっても、ずっと新聞配達をしてくれていればいいなと思います。
『僕の原動力』
神森 清志(16歳) 高知県四万十市
朝五時、携帯の目覚ましを止め、ベッドから降りて寒くないような格好に着替え、バイクのエンジンをかけて新聞配達を始める。
これが僕の毎朝の習慣だ。今では、体が覚えていて、あたり前のように配達をしているが、この習慣が身につくまでの期間は、とても大変だった。毎朝五時に起きて、バイクで走ることが苦に思えてしかたなかった。それでも根性で頑張っていると、気付かないうちに体が覚え、心にも余裕ができてきた。以前までは、配達する家を間違えたらどうしようなどと弱気になっていたが、今では配達することに楽しさを感じている。
新聞配達の一番の魅力は、普段会えない地元の人たちに会えることだ。自分からあいさつすると、相手の方も笑顔で返してくれる。あいさつすることがこれほどすがすがしいものであることを改めて感じた。
西土佐の人々のあたたかさが伝わってくるこの新聞配達は、僕の原動力だ。
『手から手へ』
中里 玲奈(16歳) 青森県青森市
私は新聞を読まない。新聞なんて今の時代ネットがあるから必要ない。私はこう思っていた。
しかし、三月十一日東日本大震災が起きた。信号・街灯・家の灯りが一気に消え、電気が通らなくなった。青森の三月はまだ肌寒い。暖房器具もつかない。周りの状況が分からないまま、暗くて寒い長い夜を過ごした。
朝になっても電気は通らず毛布にくるまっていると、ガコンと玄関から音が聞こえた。みてみると新聞だ…。いつもよりも真剣に汗を流しながら配達するおじさんがいた。こんな日でも新聞配達するんだと思いながら、新聞の一面の記事に目を奪われた。そこには、崩れた家・津波の後・泣き叫ぶ人々が写っていた。私は言葉が出ず、気づいたら泣いていた。心なしかおじさんがいつもより真剣な表情をしていたのは、みんなにこのことを伝えるためだったのだ。
新聞は手から手へ渡すからあたたかく、人の心を動かす。新聞っていいものだと思った。
『溢れる感謝』
根来 瑞季(14歳) 高知県高知市
新聞配達の人を見ると、いつも母のことを考える。母は、ちょうど今の私ぐらいの年に夕刊の配達をしていた。「友達とも遊ばず、宿題も夜にまわし、雨の日も、しんどいと思う日も、新聞配達をしたのに、お給料は安かったなぁ」。それなのに、母はなぜか「あなたにもやらせたい」と言う。
雨の日に鉄板で滑って転倒しても、めげずに配達を続ける母。配達時間が遅いとの苦情に、頭を下げて謝っている母。「おはよう」「いつもありがとう」と声をかけられて、ニッコリと笑う母。決して多くはないけれど、自分で稼いだお金を大切そうに握りしめる母。
きっと私に似ているだろうその女の子は、周りからしてくれることを当たり前に思わず、感謝の気持ちを忘れない、しっかりした子どもだったに違いない。
新聞配達の人を見ると、いつもその女の子のことを考える。そして、女の子の周りに溢れる「ありがとう」で温かい気持ちになる。
『果たされた使命』
蛭川 みおな(16歳) 岩手県盛岡市
突然、視界が激しく揺れ始め、私は得体の知れない恐怖にかられた。一瞬、何が起こったのか分からず、悲鳴さえ絞り出せなかった。
二〇一一年三月十一日、東日本大震災。電気がプツリと消え、私たちは映像での情報を遮断された。ラジオの音声を頼りに何が起こっているのか探っていたが、音というのはもろいもので、言葉が現実と結び付かなかったり、頭を素通りしたりする。
そんな中、新聞が配達された。私は、生々しい写真と文章の迫力に思わず感情を揺さぶられ、吐き気すら覚えた。私はこのとき、ようやく震災の恐ろしさを知った。そして、情報の共有がどれほど人と人の心をつなげる団結力になるかを知った。
この新聞は、青森の会社に委託印刷されたものだった。強い使命感に支えられた多くの人の手を経て届けられたのだ。配達員の手のぬくもりが、そのことを強く感じさせてくれた。
小学生部門
最優秀賞
『タンポポ』
大山 藍(12歳) 茨城県小美玉市
私の一日は、リビングにその日の朝刊を運ぶことから始まる。これは、ずっと続けている、ちょっぴりのお手伝いだ。私はこの役目が実は気に入っている。誰よりも早く玄関のドアをあけ、朝一番の新鮮な空気で深呼吸ができる。そして、誰よりも早く新聞を見ることができるからだ。ほとんどがテレビの番組らんだけど、ぱりっとアイロンがかかったような新聞をめくるのは、とても気持ちがいい。
ある時、新聞受けの近くにタンポポが咲いているのを見つけた。小さいけれど、ちゃんと黄色の花をつけている。そして、よく見るとバイクのタイヤの跡が器用にこのタンポポを踏まないようにしているのがわかった。さらに、雨が降った時は、タイヤの跡はちょっと手前でUターンしていたのだ。タンポポを守るために、わざわざバイクから降りて新聞を届けるなんて、「すごい!」。私は、やさしい心にふれて、とてもうれしくなった。新聞配達のおじさん、感動をありがとう。
優秀賞
『いつもと変わらない』
賀曽利 歩(10歳) 千葉県市原市
三月の大震災で、私の住む地域でも避難勧告が出されました。その後も、余震があちこちで続いたり、いつ停電するかわからなかったり、毎日不安な気持ちでいっぱいでした。そのせいか、つまらないことで弟と言い合いになったり、なんだか勉強が手につかなかったり、楽しくない毎日でした。「買い物に行っても品物がない」「どこでガソリンが入れられるのだろう」などと、両親も落ち着かない様子でした。
そんなある日、よく眠れずに寝室からまだ暗い空を見ていたら、ライトが光り、バイクの音がしました。新聞だ!玄関に行くと、いつもと同じようにポストに新聞が入っていました。いつもはテレビ欄ぐらいしか読みませんが、そのときはなんだか新聞が宝物のような、すごいものに思えました。こんなときでも、今日も明日も届き、いつもどおり読むことができる。「いつもと変わらない」ってとてもありがたい気がしました。新聞配達員さん、明日もよろしくお願いします。
審査員特別賞
『切ない気持ち』
唐木 秀徳(9歳) 埼玉県春日部市
その日の朝は、何度も新聞受けの中をのぞいているぼくがいました。毎朝新聞を取りにいくのが、ぼくの日課でお手伝いです。
配達の方のバイクの音が聞こえてきました。ぼくは待ちきれず玄関前に立ちます。「配達がおそくなってごめんね。昨日の地震でけがはしなかったかい。今朝の配達は今までの配達で一番切なくて悲しいよ」と言って、ぼくの手の平に新聞をそっと置いていきます。配達員の方のその言葉が、とても耳に残りました。
あの日手渡された新聞は、心が重たくなる内容で悲しい気持ちになりました。ぼくはその新聞を見つめながら、色々考えました。ぼくの身の安全を心配してくれたことや、新聞の配達がいつもよりおそくなってしまっておわびしていることについてを。
新聞にかかわる人たちの思いや、新聞配達の方の切ない思いを、ぼくはかみしめました。
入選(7編)
『みんなでつなげる安心』
石塚 水伊菜(11歳) 青森県上北郡おいらせ町
私の母は、新聞配達をしています。毎日、休むことなく新聞をいろいろな家にくばっています。三月十一日、東日本大震災が日本をおそいました。けれどもうちの母は朝早く起きて、「新聞をとどけなきゃ」と言って、家を出ていこうとしました。でも子どもをおいて行くとあぶない、と思ったのか私と妹をつれて行きました。車の中ではこんな話をしていました。「新聞、ちゃんとすれてた。自家発電だって。大変そうだったよ」
全国の新聞配達の人は、毎日、こうやってがんばってみんなに配達しているんだな。すごいなと思いました。いまもずっと休まず新聞をとどけています。
おばあちゃんやひいおばあちゃん、じいちゃん、ひいじいちゃんは、テレビがついたとき、よかったと安しんのためいきをもらしていました。それと口ぐちに、「テレビがつかないとき新聞があってよかった」と言っていました。私は、新聞配達の人にかんしゃしています。ありがとう。
『毎朝、おじいちゃん、ありがとう』
岡本 英里(12歳) 富山県富山市
毎朝、私の家に新聞を届けてくれるのは、黄色の安全キャップをかぶったおじいちゃんです。届けてくれるときは、私はまだねているのでわかりませんでしたが、ついこの間のことです。
冬のいてつく晴れた日曜日のことです。朝刊がきていないとお父さんが言い出し、新聞屋さんに電話したところ、すぐに黄色の安全キャップをかぶった配達のおじいちゃんが届けてくれたのです。
実は、玄関の戸が凍りついて開かなかったので、新聞がぬれないようにガレージにおいてくれていたのです。
全然嫌な顔もしないで、元気よくあいさつしていかれました。お父さんのせっかちだったのが恥ずかしかったです。おじいちゃん、本当にありがとう。いつまでも交通安全に気をつけて、新聞配達をお願いします。
『いつも感しゃ!』
金田 七香(9歳) 愛知県海部郡大治町
私のおばあちゃんは十七年前から新聞配達をしています。
朝、ポストに新聞が届いていることはあたりまえのように思われるけど、配る大変さをわたしはおばあちゃんを見て少しだけ知っています。雨の日も台風の日も雪の日も休みではありません。他にも新聞配達のくろうはあります。すごく暑い日もさむい日もあります。犬にかまれることもあります。エレベーターのないマンションもあります。おばあちゃんは熱があってもかぜをひいても休むことなく配っています。
どんなときもおばあちゃんは、ぐちやもんくを言いません。それよりも、「こんなとしよりまではたらけてありがたい」と言っていつも感しゃしています。わたしのお兄ちゃんは台風やしょう月の大変な日に進んでおばあちゃんを手つだっています。家族みんなが新聞配達の大変さを知っています。
おばあちゃんは今七十三歳です。今日もがんばって配達しています。
『たくさんの人からのバトン』
中飯田 千彩(11歳) 山梨県北杜市
私の家に来る新聞配達の人は早起きです。私がまだ寝ている、朝の五時くらいに来るそうです。何けんもの家に新聞を配るので毎朝早く起きるのが大変だと思います。晴れやくもりの日は原動機付き自転車で来て、だけど雨や雪の日は、おばさんに車で送ってもらっているそうです。多くの人の力があるから新聞が毎日読めるんだと思いました。
私の家のポストは、雨がふると中までぬれてしまいます。だけど、配達の人は新聞がぬれないように工夫してくれています。ポストへの差し具合を加減するのです。家族がたのんだのでもなく、ポストの構造を見て、してくれていることに感謝します。
友達は東京で新聞配達の仕事をしています。午前二時起きで配達するのでとても大変だけど、たくさんの情報を届けるという誇りがあると言っていました。
記事を書く人、印刷する人、写真をとる人、配達する人など、たくさんの人からのバトン。それが新聞なんだと考えると、これからバトンをもらった私はしっかり読み、自分の考えを深めたいと思いました。
『どんな時もありがとう』
深川 了賢(9歳) 福島県郡山市
とつぜん、大地しんがやってきました。地われができ、どろ水がふき出し、屋根がこわれ、電きもガスも使えなくなってしまいました。電話もつながりませんでした。何が何だか分からないまま、まっ暗になってしまいました。よしんのたびにろうそくの火をけし、テーブルの下にかくれました。
次の日、家の新聞うけに新聞が入っていたので、きぼうがわいてきました。そして、その新聞を読んで、「福島で大へんなことが起こったんだな」と分かりました。電きも電話も使えない時に、ありがたかったです。
ぼくは、この大地しんをきっかけに、新聞を見るようになりました。ほうしゃのうの数ちをチェックしているからです。こういうことを調べられるのも、新聞のいいところです。
新聞屋さん、「どんな時もとどけてくれて、ありがとう」と、つたえたいです。
『おかげさま』
三浦 あずさ(11歳) 青森県上北郡おいらせ町
新聞は毎日届く。朝と夕方の二回。新聞はいつも私がいない間に届く。朝は学校に行く前に新聞を取り、夕方は学校から帰って来たら取る。毎日の日課の一つ。
でも、ある日、東日本大震災が起きた。私の家には新聞が届かなかった。テレビもつかず、何も情報がなかった。どんなに大きな被災かも分からなかった。だけど、地震の二日目に届いた。この時、母はこう言った。
「自分の家もきっと被災してるのに、すごいね」
私は、そうかと思った。新聞配達の人のおかげか。だからみんな被害じょうきょうが分かるのか。
その日からは、少しだけでも新聞を見ることにした。そのおかげで少しずつ知識が身についてきた。本もすらすら読めるようになってきた。これは、全部配達してくれている人のおかげ。私は、これからも感謝しながら新聞を読み続けていく。
『ありがとう』
与座 なつき(12歳) 沖縄県島尻郡久米島町
私の母さんは新聞配達をしています。私も休日は新聞配達を手伝っています。久米島は離島なので、朝刊を配るのも九時頃になります。
私が新聞配達をしてうれしいことは、新聞を配達すると地域の人がありがとうと笑顔でいってくれることです。私は一日にありがとうという言葉を何回も聞いているのでがんばろうと思えます。
また、新聞配達をしていて気をつけていることは笑顔であいさつすることです。学校やほかの所であいさつできるようになったきっかけの一つが新聞配達なので、これからも心がけていきたいと思います。もう一つは、新聞を少しでも早く配達することです。そうすることで地域の人が知りたい情報や楽しみにしている記事をいち早く届けることができるからです。
私は、地域の人に喜ばれ、きずなが深まるこの新聞配達にとてもやりがいを感じています。
